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GOK SOUND45年以上の歴史

●1956:近藤 祥昭 誕生

10/8​、福島県福島市にある母親の実家にて長男として爆誕。

​ちなみに近藤は父親似。

●1971:運命の出会い
この年にPink Floydのアルバム「Meddle」が発売。
作品だけでなくジャケットから全て含め、当時15歳中学生の近藤氏にとって大きな衝撃を受け、「これをやるぞ!!」と思った。
​幼いながらに、この音楽を実現しているエンジニアの存在が演奏者と同じく重要ではないかと考えた。
​中学3年には、パーツを購入してオリジナルスピーカーを製作した。



 
●1972:福島高校 入学
​高校1年の時点で卒業をしたらPA屋をやると決心する。
2年上の先輩に、後の BOØWYのドラム、高橋まこと氏がいた。
​当時、応援団長をしていた高橋まこと氏が演奏したLED ZEPPELINを聴き、初めて目の当たりにしたロックバンドに衝撃を受けた。

高校3年の冬、オーディオ雑誌「無線と実験」にヒビノ音響のオリジナルコンソールの回路図を当時の設計者が公開しており、それを見ながら自作コンソールを設計し始める。



 
●1975:法政大学入学、オリジナルコンソールを製作
法政大学夜学部入学と同時に上京。
大田区に借りた四畳半のアパートに暮らしながら、夜学生として大学に通う。
母子家庭で貧しかったこともあり、既製品(当時100万近く)を買うお金がなかったので、予算30万のオリジナルミキサーを押し入れで製作し始めた。

当時、YAMAHAなどはコンソールを販売していなかった。
そこで、楽器アンプメーカー会社「ELK」に電話で相談したところ、ベースアンプのパワーアンプ部分の回路図の青写真(当時はまだコピーはなかった)を郵送してくれた。
それを参考に秋葉原でパーツを購入し、パワーアンプを製作した。



 
●故 小野武彦氏との出会い
上京を期に、高校時代の元カノの紹介でミュージシャンを志していた故 小野武彦氏と出会う。
当時、アマチュアバンドをしていた彼は、当時の技術では難しかったオーバーダビングを自宅で行いデモテープを制作していた。
​彼の技術を目の当たりした近藤氏は、彼と二人でPA屋として活動していく事を決心する。



 
●JUNON SOUND結成
近藤氏と故 小野氏、2人でのPA屋「JUNON SOUND」を結成。
​名前の由来は、
祥昭の”
”をYoshi,Yoshu,,,"JOS"と小野の”ONO”を合わせた名前となっている。


 
​●JUNON SOUNDデビュー

日大で行われた学生の自主運営コンサートのPAが最初の仕事だった。

そこでは、鈴木茂やハックルバック、ゴダイゴの前身バンドが出演するなど活発的だった。

当時、万博や外タレブームによりヒビノ音響がPAレンタルを始め、PA業界が発展した。

そんな中、近所の楽器店に「PA始めました」のチラシを張り、宣伝をした。​

●1976:雑誌「Player」に掲載
​とある自主コンサートを企画していた日大芸術学部のアマチュアバンドマンに雑誌「Player」の編集者を紹介され、「PA機材を手作りしてPAを始める人たち」として取材を受ける。
アパート近くの多摩川河川敷に機材一式とPA車(幌がけトラック)を並べ、雑誌に掲載する写真を撮影した。



 
●法政大学でPA
初めて法政大学でのPAに関わったのは​、大学1年18歳の頃だった。
当時、夜間に大学の学生会館で学生自主運営のコンサートが行われていた。
学生会館は1974年にできたばかりで、会場には当時400万円程する日本製12chの最高級放送用PA卓やJBLスピーカー、当時15万円のコンデンサーマイクなどが設備されてあり、近藤は驚愕した。

それから学祭のPAに関わる事となる。
当時は4日間オールナイトだった。真夏に全身黒づくめ長袖の姿で飛び跳ねながら絶叫するミュージシャンや、NEW DIRECTION(大友良英氏の師匠)などといった様々なミュージシャン・音楽と出会い、近藤にとって音楽的に刺激的な経験となった。
この時の黒づくめのミュージシャン、つまり灰野敬二氏と近藤が初めて出会った場所だった。



 
●武蔵野美術大学 学祭
近藤の高校の同窓生から、武蔵美の学祭での野外テントステージのPAの依頼がきっかけとなり、携わることとなった。
当時大学からの資金援助はなく、学祭時は無料なので夕方学祭が終了後、テントから全機材を学食まで運びダンパと称して
カンパ金を集める事によって経費を賄っていた。
野外ステージのみならず大教室にもステージは作られ、
あらゆる場所から音が鳴っていた。

出演者は当時人気の金子マリ&バックスバニーをはじめとする、プロ陣と学内バンドで4日間オールナイトだった。
当時の運営が評価されてなのかやがて学祭本部企画となり、野フェスというタイトルで暫く続いた。
外には、美大らしい趣向を凝らしたサークルごとの模擬店ステージが並び、そこから代表バンドが武蔵美野フェスにも出ていた。
現在活躍するYOUR SONG IS GOODは野フェスの人気バンドだった。

2019年頃以降、​コロナ禍もあり残念ながら野外ステージはなくなり体育館でのライブ演奏となった。
また復活してほしい。

2020年から武蔵美の非常勤講師として勤務した。



 
●1979:JUNON SOUND解散
​     楽器屋&レンタルスタジオ「GOK COMPANY」
「JUNON SOUND」解散と同時に、高校の同級生が住んでいた国分寺のアパートに引っ越す。
そのアパートは取り壊しが決定していた為、1年限定で1棟借りる事となり「GOK COMPANY」という楽器屋兼レンタルスタジオを始めた。
​そのため当時を知る人からは”ごっこ”「
GOK COMPANY=GOKCO.」と呼ばれている。

アパートの壁を赤く塗装し、問屋からギターや弦などを仕入れ販売をした。

1階にある4畳半の部屋をスタジオにするため、押し入れを壊して5畳半のスペースを確保しドラムセットと自前のギターアンプ、ベースアンプを設置した。
近隣への配慮のため、スタジオは16:00-18:00限定で1時間¥500だったが、近所の高校生などの学生からは人気だった。
​防音工事は一切しておらず、音が漏れ放題だった。



 
​▷エピソードトーク
黎明期のGOKCo(確か当初の表記はこれ)は、そのロングヘアプロフェッサー氏がアパート一棟借りで営業していました。 小学生の自分にはドコドコ音が漏れて時々オトコオンナが出没する、不穏な館でした。
その約10年後、今度は自分がオトコオンナになり、移転したGOKにそことは知らず突撃しかけるのですから、全く人生わかりません。。

電子鍵盤演奏・作編曲家 佐々木聡作
●​「Player」連載スタート
1976年「Player」からの取材をきっかけに、1979年の約1年間だけだったが近藤が連載をしていた。
内容は、寄せられた質問などに対し近藤がアドバイスをしたり、機材の解説などだった。
​機材や音への変態的探究心は今も変わらない。



 
●GOK SOUND 誕生
レンタルスタジオ兼楽器屋と並行して、PA屋としても活動する。
そして、レコーディング業を始めるために「
GOK COMPANY」から「GOK SOUND」となった。
​ここから「GOK SOUND」が誕生した。



 
●"GOK"の由来と意味
”GOK”という名前は、当時福島県にあった「ごっこ」という喫茶店が由来となった。
店内では演劇やロックバンドなどを志す青年たちが集い、熱い意見交換や話し合いが行われていた。
それをこっそり聞いていた高校生の近藤は(当時、高校生は立ち入り禁止だった)店名は「ごっこ」だが、中で起きていることはとても本格的だと衝撃を受けた
自分のスタジオもそのような場にしたいと思い「
GOK」という名前が誕生した。

ある日、5畳半のスタジオへ練習に来ていた米兵から言われた一言「"GOK"の名前はGod Only Khowsから来ているのか?」がきっかけで「G.O.K」という言葉の存在を知った。
​そしてその意味を知り「GOK=GOK Only Khows」という意味が誕生した。

「GOKらしいサウンド」「GOKにしかできないワザ」俗に”近藤マジック”と言われているこれらの秘密は、まさしく”G.O.K”であると思う。



 
●国分寺GOK SOUND移転・製作
1年限定のアパートから同じく国分寺市内の貸店舗に移転し、そこにスタジオを2部屋作るところから始まった。
広さは20坪ほど。

当時マルチレコーダーがなかったので、PAのBGM用カセットデッキを使用して録音した。
そして1980年頃から自宅録音用8トラックのレコーダーが登場した。
38万円のFOSTEXのレコーダーは8トラックだったが、4トラックずつしか同時録音できなかったため、試行錯誤し続けアマチュアバンドの録音ができるようになった。


 
●1981:国分寺GOK SOUND リハスタ オープン
まず初めに12畳と8畳のスタジオを製作した。

猫を2匹(ジンベエ、シャケ)をスタジオで飼っていた。
ある日、PA車に忍び混んでしまったらしく、機材を下ろそうとドアを開けたら「にゃあ」と鳴いて近藤は驚いた。
コンサートが終わるまで楽屋で預かってもらった。

朝、スタジオに来ると2匹ともバスドラの中で眠っており、寝床と認識していたようだ。
レコーディング中は、MIXがまとまってくるとメンバーの膝の上に乗り、疲れを癒してくれた。



 
​▷エピソードトーク
今やヴィンテージ楽器とか大変な高値だが、本当の価値は生み出す音にある。
それを余すところなく記録できるGokサウンドの近藤さんが、有名無名にかかわらず同じに録音を請け負うのは、一つの文化を支えようとする意志に他ならない。

μ-tants 森田亮
●フレッド・フリスJAPAN PROJECT
この年、初来日したイギリスのミュージシャン、フレッド・フリス氏のJAPAN PROJECTに携わる。


 
●1984:国分寺GOK SOUND 完成
スタジオを2部屋製作した後MIX ROOMを完成させ、レコーディングを開始した。
かねてから懸案だった響くスタジオ、スタジオ界で嫌われてる音の被りを味方につける響きを目指した。
とは言うものの、石膏ボードや合板が剥き出し状態のDIYでドアも手作りだった。
12畳と8畳の2部屋はガラス越しで見えるようにした。

デビュー期のストリートスライダースやZIGGYの楽曲はここで練られた。
遮音は完全ではなかったため、曲が熟成していく様子が漏れ聞こえ楽しかった。

8畳のBスタジオは10cm厚のコンクリート製。その響きは強力でP-MODELやLUNASEA などの録音の時、彼らのビートを支える事ができた。

リハスタとして始まり、40チャンネルのオートコンソール、32トラックのレコーダを備えるまでになった。
近くに定食屋「赤城」があり、バンドメンバーとよく食べに行った。
佐野史郎、藤本敦夫、橋本一子、山内テツ、近藤等則、LUNASEA 、大友良英、フレッドフリス、水玉消防団、岡林信康、カーネーションなど数多くのミュージシャンが訪れた。

カレッジシーンの胎動も力強かった今活躍するバンドの原始がここに在った。
PINKのメンバーとしても活躍してたホッピー神山氏が来た時、後のゴッドマウンテンレーベルの片鱗を感じた。
GOKで起きてることも世に拡まったら良いと確信した。その思いは今も変わらない。



 
​▷エピソードトーク

GOK STUDIO 45周年おめでとうございます!!
私は初期のGOK、国分寺の頃から近藤さんの音が好きすぎて、全てのスタジオでレコーディングしてきました。

PAも色々お願いしましたが、写真は1983年、二本松でのコンサートに、PA近藤さんと一緒に行った時のもの。

パワフルで面白くて楽しかった!懐かしい!


これからもまだまだいろいろ宜しくお願いします!!

​ピアニスト、作曲家、他  橋本一子

●1983:仕事風景
●1985:P-MODEL、平沢進氏との出会い
吸音材を使用しないスタジオとして口コミが広がり、それが平沢氏の目に留まり出会うこととなる。
​国分寺スタジオだけでなく様々なスタジオでレコーディングをした。
某所にてレコーディング中に止めてあった機材車に車が突っ込み、廃車になったというエピソードが有名。

P-MODEL作品では1985年に「KARKADOR」、​平沢氏のソロ作品では1989年に「時空の水」1990年に「サイエンスの幽霊」に携わった。

ツアーライブにも同行し、機材車で各地を回った。
近藤自作のミキサーからサラウンドパンポットの部品を外し、渋谷クアトロでのソロライブの際に平沢氏のギターソロを会場内を360度回転できるように改造した。(写真参照)

伊豆スタジオにてレコーディング中、伊豆スタジオの中庭でコオロギが鳴いていた。
彼らは音に反応するはずと思い、中庭に小型スピーカーを仕込み録音中の曲を流し鳴き声を録音した。
その音源をこっそり曲に混ぜたが、何の曲だったか忘れてしまった。



 
●P-MODELツアーライブ
●LUNASEA レコーディング
国分寺スタジオでエクスタシーレーベル版の録音に携わった。
当時25歳の彼らは、才気溢れる強い意志を持ちながらも繊細で柔軟で、レコーディング中近藤の提案にも挑戦してくれた。
歌詞は何度も書き直すのだが、本番は1回で歌い切った。
残念ながら国分寺スタジオの火事により、当時の写真や資料は燃えてしまった。

ドラムの真矢氏にはロートタムのサスティンコントロール法、ギターのSUGIZOにはシンセやコンピュータに頼らずギターだけでストリングスの様なサウンドをつくる方法を提案した。

レコーディング期間は寒い時期で、綿入り半纏を着て2階の居住スペースに合宿しながレコーディング作業をした。
夜は近くの定食屋で唐揚げ食べた。

将来期待されてた彼らは、現在も輝かしい活動を行なっている。



 
●1986:ZIGGY
この頃、ZIGGYの最初期にリハやデモ音源のレコーディングに来ていた。
その後ブレイクし、20年後にスタジオへ訪れてくれた。



 
●1986:国分寺GOK レコーディング風景
​▷エピソードトーク

この写真は(上記右2枚)小学生の頃学校でウワサになり、実際目撃した事もある「駅南口に出没するオトコオンナ」の正体が、実はスーパー長髪時代の近藤さんだった事を知った頃の写真でもあります笑

1986年高校卒業後、近藤さんに「あの、日当3000円で使ってくれませんか」と無理矢理潜り込んだバイトの佐々木です。 当時全盛だったHMHRに浮かれてバンドを続けていただけの自分に、ピンク・フロイドを授け、音の不思議さ、この世界でやってゆく険しさと楽しさを教えてくれたのはこの場所です。

45周年おめでとうございます!

電子鍵盤演奏・作編曲家 佐々木聡作

●1988:ニューロティカ
ニューロティカとの出会いは、出会いは彼らがまだ高校生の学内チャペルコンサートでPAをした時だった。
スーツタイプの制服姿に学生上履きを履き、十字架を背にし明るいオリジナル曲のパンクロックを披露していた。

その後、彼らはネオファミリーレーベルを立ち上げた。
PAとして携わった1988年の旧中野公会堂で行われたレーベル主催の大コンサートを彼らは成功させた。
当時に既にピエロ姿でステージに立つあっちゃんは後にメジャーデビューし、山中湖ビクタースタジオでカン詰めになりながらレコーディングをし、夜はBBQをして楽しんだ。

国分寺スタジオでは、初期名曲「流れて」でトイレの水を流す音も録った。
続くライブハウスツアーでは、当時スタッフだった鈴木利勝氏が同行し、このコンビを2022年の正月に武道館で見守った。
武道館単独公演は"夢"ではなく"予定"であったと思う。



 
●1989:THE GROOVERSレコーディング
平沢進氏プロデュースのバンド「THE GROOVERS」のレコーディングを行った。
レコーディングだけでなくライブのPAも携わった。

​平沢氏となるべくコンプレッサーに頼らないように録音していく方針で進めたが、MIX時にどうしてもコンプレッサーが必要と思い、SSLのマスターコンプに手をかけ平沢氏を見ると「許可します」と言われた。



 
​▷エピソードトーク

デビュー前、当時国分寺にあったGOKサウンド。

ほとんど現場に出ている近藤さんは「給料はあがる時にレジから抜いといて!」というワイルドなスタイルで、金の無い僕らに店番のバイトをさせてくれました。

その後もメジャーでの初めてのレコーディングや、ライヴ・レコーディング・ツアーへの帯同などでお世話に。

GOKはどんな形ででも存在していてほしい音楽基地です。

 

THE GROOVERS

●ホコ天ライブ
1990年代、原宿の歩行者天国を塞いで路上ライブが行われていた。
様々なバンドが場所を確保し、それぞれが演奏をしていた。
当時は時間内で演奏し放題、許可なしで行うことができ、出店や多くの観客で賑わった。

当時、GOKの4tトラックで機材を運びTOM★CATのPAを行った。



 
●国際基督教大学(ICU)のICU LAMBS
学生の完全自主制作ミュージカル「ロッキーホラーショー」上演のためPAの依頼を受けたのが最初だった。
上演場所の学内ホールはアメリカ規格の建築だった。
リハーサルに立ち会い、アメリカ的カレッジシーンの自主制など様々な考えをお互いを尊重しながら練り上げてゆく様子を見て驚いた。
日本語化する部分と原作通りの部分があり、学生は流暢な英語を話し共に創り上げてく楽苦しさは素晴らしかった。
それから彼らと付き合いは、サンバチーム「ICU LAMBS」へと続いている。

サンバパレードの仕込み中、トラックにイントレを組んでいた時に近藤がイントレの角に頭をぶつけ、大量出血し救急車で搬送された。
救急病院で頭の傷口を医療用ホッチキスで止め縫合された。
施術後、頭に包帯を巻いた状態で現地へ戻り、パレード出発5分前に到着しPAを全うした。

事故直後、その場にいたメンバーは「近藤さんはもうダメかもしれない」と思ったらしい。



 
​▷エピソードトーク

近藤さんに出会う前からGOK SOUNDの音は聞いていた。

高校生のときからZoobombsやらなんやらが好きだったので、それと知ったときにはうれしかった。

私が所属しているICU LAMBSは国際基督教大学のブラジル音楽のサークルで、浅草サンバカーニバルのPAや録音でGOKには毎年お世話になっていた。

私が中心になって作った山車を近藤さんが自前のフィルムカメラで写してくれた瞬間は、人生のなかでももっともうれしかった思い出のひとつ。

大学を卒業して北海道に私が移り住んで以降もたびたび連絡をくれ、それでなにかGOKの力になりたいと思って立ち上げた企画やイベントがいくつかある。

そのおかげで学生のときを超えるうれしさをまだまだ作りつづけられているのは、出会った偶然が連れてきた結果としてのみ片付けられるものではない。

近藤さんの人柄やGOKの歩んできた歴史が、私たちにそれを成し遂げさせたのだと思う。

およそ一般的ではない近藤さんの考え方にはいつも驚かされるが、しっかりと筋が通っているからすごい。これからも末永く近藤さんの理想を追究してほしい。

 

ICU LAMBS かめ

●1991:高幡不動GOK SOUND 誕生
国分寺でのレコーディングが盛んになり、高幡不動のビルにあった羽鳥音楽院の居抜きを借り、新たなGOK SOUNDをオープンさせた。
地下から2階までスタジオとMIX ROOMを設置し、3階に住居スペースを作った。
​お風呂もあったので、泊まり込みでレコーディングを行うことができた。

このスタジオにはシナロケの鮎川氏やホッピー氏、大友良英氏のプロジェクトでアルタードスペースなど数多くのミュージシャンが訪れた。



 
●1992:国分寺GOK SOUND 火事
国分寺と高幡不動の2ヶ所で経営をスタートして1年ほどの時に、国分寺GOKで火災が起こった。
レコーディングの資料やテープなどが消失し、機材も炎の熱で溶け消火剤によって使用不能となった。
出火原因は、トラッキング現象よるショートでMIX ROOMから出火した。

前日の夜中、小島録音でバンド「de ga show」のマスタリングを終えてスタジオに戻った。
普段、GOKのMIX ROOMで最終確認をするが、この日だけはなぜか直ぐに帰ろうと思った。
その数時間後、電源から出火した。
通報を自宅で受け駆け付けると、中で眠っていたら一酸化炭素で死亡していただろうと消防士に言われた。

焼け跡から、梅津和時さん率いるバンド「シャクシャイン」のマスターDATテープが見つかった。
ケースは焼け爛れていたが他のケージに何とか移し替え、一度だけフル再生できたときのものをマスタリングした。
力作だったのでとても有り難かった。
この音源のレコーディング中に、梅津さんから「ここがもしなくなったらと思うとゾッとする」と言われた事を思い出し、
近藤はゾッとした。
数時間前の”帰らなければ”と感じた事は、何かの警告的暗示だったのではないかと思う。

焼け爛れたメインコンソールをスタッフ全員で修理し、高幡不動スタジオの3階に上げ、合宿可能なMIX ROOMにした。

​この火事によって11年続いた国分寺GOKは閉店した。



 
●1994:高幡不動GOK SOUND 閉店
3年間という短い期間だったが、新たなスタジオ・サウンドを求め、高幡不動GOK SOUNDを閉店させた。
​そして吉祥寺へ移転する。



 
●1995:吉祥寺GOK SOUND 誕生
火事後、再び中央線沿いにスタジオを構えたいと思っていた矢先、吉祥寺にスタジオを構える転機が訪れる。

1994年にホッピー神山氏の仕事で宮本亜門氏が演出を務めるミュージカルのPAを担当した。
その神戸公演の合間に訪れた占いコーナーにて、当時物件探しをしていた近藤は「
現在の所から東北東に行って探しては?」と助言された。
その後東京に戻り用事で中央線に乗り、喉が渇き吉祥寺駅で途中下車し、売店に寄った売店で住宅情報の雑誌が目に入り購入した。
高幡不動スタジオに戻り雑誌を捲ると、後の吉祥寺スタジオの物件が載っていた。
地図に定規を乗せると、吉祥寺は高幡不動から東北東の方角だった。
まだ陽があったので、すぐにまた吉祥寺に向かった。
それが吉祥寺スタジオとの奇跡の出会いだった。



 
●吉祥寺GOK SOUND製作
吉祥寺スタジオも1から製作するところから始まった。
​当時のスタッフやボランティアで協力してくれた方と共に作り上げた。

内装は国分寺スタジオを再現するように全面コンクリートのAスタジオ、壁を木材で覆ったBスタジオ、近藤の希望でライブもできるLスタジオを製作した。

スタジオの床は、コンクリートを厚さ12cmまで流し込んだ。



 
●吉祥寺GOK SOUND 製作風景
●吉祥寺GOK SOUND完成
●吉祥寺GOK SOUND 初期
​▷エピソードトーク

GOKで録音する時には必ずスタジオ保有のナイスなティンパニをお借りしていたが、ある時いつものティンパニが貸出中とのことがあった。

録音当日ほんの少し残念な気分でスタジオに到着したところ何とピカピカのティンパニ2発が用意されていた。

近藤さんがわざわざ他所からレンタルしてきてくれていたのだ。

エンジニア近藤さんも自分と同じようにティンパニでの録音を楽しみにしてくれていたのである。

どうしようもなく音楽好きでインディペンデントな精神が貫かれた希有な存在GOK SOUND=近藤さん、45周年おめでとうございます。

音楽家/フルデザインレコード主宰 藤掛正隆

●1996:ART CAMP 白州